石井素子
RN, MS, AGPCNP-BC, AOCNP
「何歳になっても、夢を持ち続け、新しいことにチャレンジし、常にHAPPYな自分になる努力をしましょう。」と、大学の恩師T先生からいただいた言葉は今でも座右の銘のように大事にしている。T先生の授業は、毎回刺激的で学びが多く、ワクワクしながら一番前の席で授業を聞いていた。T先生は、看護の素晴らしさや奥深さ、やりがいだけではなく、最高の看護を提供するには、まずは自分自身が幸せになることが大切であることを教えてくれた。幸せになりなさいと言われてもどうしていいかわからないものだが、T先生は特別講師を学外から招いてくれ、夢の叶えるためのヒントとして “夢マップ”の書き方を学ぶことができた。そのほかにも、T先生は、アメリカのナースプラクティショナーを招き、海外の医療から学ぶことの面白さを教えてくれた。その時描いた夢マップを片手に、看護師として幸せへの旅路を探求するスタートを切ったのはかれこれ20年以上前になる。
初めての列車
創傷・排泄ケアのスペシャリスト(WOCナース)であったT先生の研究室で学びを深めた経験からがん看護に興味が湧いてきた学生時代。その後、がん看護への思いが、興味から確固たる情熱に変わったのは、大学を卒業する1ヶ月前の出来事からだった。看護国家試験が終わった直後、携帯電話の電源をつけた瞬間に電話が鳴った。父からだった。「おばあちゃんが、末期のがんで入院しているので、帰ってきてほしい」と。祖母は、77歳まで現役で整形外科専門の看護師だった。交通事故に遭う朝まで、看護師長として働いていた看護の大先輩である。看護師になったら祖母からいろんなことを学びたいと話していた矢先に、強い痛みと吐き気を発症し、都内の病院に搬送され、末期のがんの診断を受けた。地方の看護大学に行き一人暮らしをしている自分の国家試験に影響を与えないようにと、家族の計らいで祖母の病気を告げずにいてくれた。国家試験直後、祖母のがんのニュースを受け取り、真っ先に実家に戻り、その後都内の病院の緩和ケア病棟に入院している祖母の病室で寝泊まりしながら、卒業研究に取り組んだ。あの時の時間があるから今があるのだと振り返って思う。主治医の回診で、「最期に何がしたいですか」という問いに、「がんの勉強がしたいです」と言っていた祖母の言葉は今でも忘れられない。病床で、祖母は自分自身の体を通し、看護師になる自分に患者や家族が抱える様々な苦痛、そしてその合間に感じる喜びなど多くのことを教えてくれた。残念なことに、その時間は長く続かず、診断後たった1ヶ月半、私が看護師として働き出す2週間前に家族皆に見守られながら他界した。最後の息を見守るということを人生で初めて経験したのも、看護師としてスタートする孫への祖母からの贈り物だったのかもしれない。
その二週間後、千葉のがんセンターで看護師のキャリアをスタートした。病院面接で、「ストマケアを学生時代学んできたので、大腸がんの病棟に興味があります」と伝えたのだが、配属先は呼吸器・頭頸科と伝えられた。残念な気持ちは多少あったものの、先輩や同僚に恵まれ、日々様々な学びを深めていった。祖母との時間から、患者さんや家族の立場に立つということができたものの、患者さんを看取るときは、祖母との別れを思い出し、居た堪れない喪失感に襲われることもあった。が、それをまたパワーに変え、学び・成長へと繋げていった。
2年目になり、リーダー業もこなすようになった頃、夢マップにあったWOCナースに再びチャレンジしようと、東京のがんセンターに異動したく面接を希望した。面接中、再びストマケアへの熱い思いを述べたものの、配属先が血液内科・臨床試験科と告げられた。またしても、希望の科で働けなかったことは残念ではあったが、その列車に乗りながら、自分の夢マップを再度見つめ、書き換える作業を行なった。その過程で恩師T先生を久しぶりに訪ねた。がん専門看護師になるために、大学院にいくことを考えているという自分に、T先生は「アメリカの大学院で学んで、日本の外から日本の医療・看護をみつめてみてください」とアメリカ留学という列車への乗り換えに肩を押してくれたのは2005年のことだった。
アメリカで看護師になるという列車への乗り換え
アメリカ行きの列車に乗り換えた後は、綺麗な景色ばかりではなかった。言語や文化が違う国での医療・看護への挑戦は、たくさんの揺れや悪天候も体験した。目標としていた、University of California San Francisco (UCSF)のOncology Clinical Nurse Specialistのプログラムで、がん看護を学ぶ夢が叶ったものの、早いスピードで進む授業、テスト、レポート、グループディスカッションに加え、実習をこなすことは容易なことではなく何度も挫けそうになった。そんな中でも、その列車を下車せず乗り続けれたのは、夢マップにある“アメリカで看護師になる”という夢、そして一緒に乗車していたクラスメートや家族・友人たちのおかげだった。大学院を無事に修了した後、OPTという学生ビザの延長で1年間アメリカで就労できる切符をつかみ、サンディエゴのがんセンターで、アメリカでがん看護師になるという夢の一歩をスタートすることができたのは2010年の時だった。
ナースプラクティショナーへの道
ナースプラクティショナーに興味を持ち出したのは、リサーチナースとしてハワイのがんセンターでがんの臨床試験に携わっていた時のことだった。転移性の膵臓がんと診断された54歳の男性F氏は、主治医に、診断時余命6ヶ月から1年ほどと告げられた。私が初めてF氏に会ったのは、膵臓がんの第II相臨床試験のインフォームドコンセントの時だった。重度のがん性疼痛のため、苦痛な表情で話を聞いている彼の顔を今でも覚えている。その後、治験薬が奏功し、がんが80%以上縮小、そして疼痛が軽減し、麻薬を使用せず日々の生活を送れるようになった。F氏や彼の家族と手をとって喜び、臨床試験の治療を続けながら2年が経過したある日、F氏の娘さんから電話が入った。「父が、心臓発作で病院に運ばれた」と。もともと、糖尿病、高血圧などいくつもの併発疾患があり、がん治療と並行してプライマリーケア医(家庭医)を受診していた。1度目の心筋梗塞を乗り越え、がん治療を再開することができたものの、数ヶ月後に2度目の心筋梗塞再発し、帰らぬ人となってしまった。F氏とお別れをした後、膵臓がんをコントロールすることができたけれども、併発疾患で亡くなってしまい無力感に襲われた。それまでの私は、新卒からがん医療・看護を一筋に学んできたけれども、ベースとなるプライマリーケアの知識を向上する必要性があることに気づいた。それがきっかけとなり、ナースプラクティショナーのプログラムを探し始めた。その後、カリフォルニア州へ引っ越し、ロサンゼルスの腫瘍内科のクリニックで看護師として仕事をしている時に、ナースプラクティショナーという列車の乗り換えをさらに強いものにしてくれたのは、患者Aさんとの出会いだった。Aさんは、転移性の大腸がんのため、二週に一度抗がん剤治療に通院していた。治療の前に、腫瘍内科医かナースプラクティショナー(NP)の診察があるのだが、Aさんはいつも、NPの受診を希望していたため、その理由を尋ねたところ、「NPのLさんは、いつも私のがんを診るのではなく、自分という“人”を全体として診てくれる」と。その言葉をきき、自分もそのLさんのように、患者さんをがんという疾病だけではなく、全人的に診て、ベストなケアを提供できるようなNPになりたいという目標を抱き、UCSFの成人・老年プライマリーケアナースプラクティショナーのプログラムに再度進学を決意した。
ナースプラクティショナーの列車に乗り換えて
UCSFがんセンターのインフュージョンセンター(がん通院治療センター)で看護師として仕事をしながら、ナースプラクティショナーのクラスをとり、実習でプライマリーケアの学びを深め2年という月日があっという間に経過した。
NPプログラム修了後、ありがたいことに、看護師として働いていたインフュージョンセンターで、ナースプラクティショナーとして新卒の自分を採用してくれた。この部署で新卒NP採用は、初めてのことだったのだが、経験・知識ともに豊富なNPの先輩方が総出でみっちりトレーニングをしてくれた。同じ部署で、看護師からNPと役割が代わり、どんな学びのチャンスも挑戦して少しでも成長し、日々より良いケアを提供できるように、現在も学びながら切磋琢磨の毎日である。アメリカの医療は、残念なことにアクセスが日本よりも悪いことが多々ある。特に、急性症状を併発したときに、当日受診予約を取ることが困難で、救急科(Emergency Department (ED))にいかざるを得ないことがある。ED受診は、驚くほど高額である上、待ち時間も長いので、それを回避するために、Urgent Care Clinic (アージェントケア科)という部門があり、急性症状を起こした患者が予約なしで診療を受けることができる。近年がん患者対象のアージェントケアを作る動きが各地のがんセンターで起こっている。UCSFでも、5年ほど前に、Cancer Acute Care Clinic (CACC)という診療科を立ち上げ、急性症状を起こしたがん患者を当日外来診察・治療にあたることで、不必要なED受診や、入院を回避することができるようになった。特に、この4年間はCOVID-19のパンデミックで、入院病棟やEDが満室となり、可能な限り外来で対応することが求められ、CACCの需要が高まった。急性症状は、発熱、咳嗽、呼吸苦、嘔気・嘔吐、下痢、疼痛、皮疹、浮腫、電解質異常、脱水、尿貯留、倦怠感などここには書ききれないほど様々ある。がんやがんの治療に関連した症状もあれば、併発疾患が原因であることもあるため、がんにおける知識はもちろんのこと、プライマリーケアの知識が診断・治療にとても役に立つ。
NP2年目でCACCを週に何回か担当するようになり、診察・治療にあたるようになった。よりスムーズに、安全に、そしてベストなケア提供を目指し、チームが一致団結し取り組んでいることや、他職種とケア向上のためにクリニカルパスを作成することに、やりがいや面白さを感じている。一例として、がんの免疫チェックポイント阻害薬が原因で、自己免疫性糖尿病が引き起こされたときに、今まではEDを受診するか入院をせざるを得なかったが、内分泌科の医師と協働し、クリニカルパスを作成し、外来で血糖コントロールすることができるようにった。免疫チェックポイント阻害薬以外にも、分子標的薬剤など、がんの治療は遺伝子・分子レベルの研究のおかげで、この20年で大きな進歩を遂げてきた。それと共に、通常の抗がん剤ではなかった様々な有害事象が起こる。年々新薬がいくつも承認される中で、機序や起こりうる副作用を常にアップデートしていくことは容易ではない。が、様々な症状で苦しんでいるがん患者の苦痛を少しでも効果的に軽減するためにも、アップデートは必須だ。必要時は、循環器科、皮膚科、神経科、緩和ケア科、口腔腫瘍科など、様々な専門家にコンサルテーションを依頼するのですが、自分だけではなく、チーム全体で知識や技術の底上げをしていくことで、よりよいケアにつながると思う。そして上記で例を述べたように、他科と協働しエビデンスに基づき、マネージメントを体系化することで、あるリソースを有効に使え、スムーズにケアが行うことができると思う。この列車に乗りながら、まだまだやるべきことはたくさんある。今後もCACCにおける安全で効率的で、有効なケアを目指しリーダーシップを発揮できたらなと思っている。
乗りたい列車と車両に巡り合えた喜び
NPになり5年があっという間に経過した。最初の1、2年はNPとして成長することに必死で、列車から外の景色を楽しむことが十分できていなかったように思うが、4年半経った現在はようやく一緒に乗っている仲間と共に、この旅路を楽しむことができるようになった。20年という長い年月がかかったけれども、やっと乗りたかった電車の乗りたかった車両に出会えたなと思う今日この頃だ。これまで、列車を乗り換え成長してこれたのも、祖母との経験から始まり、出会ってきた患者や家族のおかげだと思う。今後も、自分自身の幸せを見つめ、夢を描き、趣味のスポーツを継続し、NPとして、人として深みが増せるよう日々精進していきたいと思う。
いかがでしたでしょうか?次回は北海道でプライマリケア診療看護師(NP)で活動されている、当会理事の野島弘基さんです。お楽しみに!
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