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心動かされるままに突き進んで:アメリカでファミリー ナースプラクテイショナーになるまで

平 裕子(たいら ゆうこ)

Family Nurse Practitioner

米国、テキサス州、ダラス



皆様、はじめまして。アメリカのテキサス州、ダラス郊外にあるクリニックでファミリープラクテイショナー(F N P)として勤務している、平 裕子(たいら ゆうこ)です。今回、日本A P N後援会にコラムを掲載するという貴重な機会を頂き、大変光栄に思っています。この機会に私のこれまでの看護経歴を振り返ってみたいと思います。


アメリカへの憧れと看護師を志すまで


  私は沖縄出身です。私が生まれた当時はすでに戦後の米軍統治から沖縄返還後4年経過していましたが、私が物心着いた頃でも米軍統治時の名残が強く残っていました。また、私の住んでいた中頭郡は現在でも米軍基地が多く残っており、幼い頃から柵の向こうにある外国に密かに憧れを抱いていたのは否めません。


  それとは別に、学生時代に父が購入してくれた本は野口英夫やナイチンゲールの偉人伝記、1リットルの涙などの闘病記、また家に置いてある雑誌は「今日の健康」といった医療関連の書籍でした。そういうのを目にしていくことで、医療に対する興味が広がったのですが、それを看護に向けたのは中学3年生の時に新聞の第1面に「将来の看護婦不足への懸念」が大きく掲載されていたためです。この記事を見たとき、私は看護へ進路を決めました。


  その後高校そして看護学校(現看護大学)へ無事進学したのですが、最初につまづいたのが看護概念です。教科書に書いてある内容に腑が落ちなかったのです。なぜだろう?どうしてしっくりこないんだろう?と最初はとても悩みました。そして気づいたのが、学校で学んだ看護理論のほとんどが英語を訳したのもだということでした。そしてその気づきから、内容を原語で読んで理解したいという思いと、幼い頃に憧れていた「柵の向こうの外国」に行ってみたいという思いが実現可能な目標に変わっていきます。


心に残った出来事と渡米


将来の留学を目指し、看護師として小児・整形外科混合病棟に就職した私ですが、初めは失敗の連続でした。申し送りの際に先輩にダメ出しを受けることもありました。しかし、勤務2年目にもなると少し余裕も出てきます。そんなある日、上腕骨折で入院してきた女の子の受け持ちになりました。とても緊張していて、すこしでも不安を取り除いてあげようと何度も彼女の様子を見にいき、声かけを心がけました。その後、彼女は手術を受け、無事退院していきました。数週間後、整形外科外来から呼び出しがかかります。病棟専属の私が外来に呼ばれるのは不思議でしたが、行ってみると女の子がいました。ギブスを外すために来院していたのですが、ギプスカッターが怖いとのこと。医師や他の看護師では埒が明かず、私が呼ばれたようでした。その後私の付き添いで患者さんは無事ギプス外すことが出来、「おおきくなったら看護師さんになる」という素敵な言葉をプレゼントしてくださいました。この出来事は看護職の与えられる影響を実感できたと共に、今も看護の仕事に迷った時、大きな支えとなっています。


  その後、更に経験を積むため他院のI C Uに勤務し、貯金目標額に達した時点で半年間の語学留学を決めました。米軍基地に囲まれ、米国人の友人も数名いましたが、当時の英語力は日常会話がやっとというレベル。E S L(第一言語が英語以外の人のための英語クラス)でも中級から始まり、半年のE S L学習でやっと大学の一般教養が受けれるかどうかというレベルでした。それでも学び続けたいという思いから家族を説得し、留学を延長。その後、縁あって今の夫と結婚しそのまま現在まで在米に至ります。


アメリカで就職、N Pを目指すきっかけ


学生中、体調不良になってもうまく説明できなかったり、他人が体調不良で困っていても助けることができず、とても歯痒い思いを何度も経験し、すこしでも早く英語を使って医療現場に戻りたいと強く思っていました。学生ビザで滞在中は法律で就労できないのですが、結婚すると合法で働けます。永住権を受け取ってからすぐに始めたのは就職活動。といっても米国で看護師になるのは正看護師免許(R N /Registered Nurse)を取得しなければいけないので、整形外科で看護助手(C N A /Certified Nursing Assistant)として働き始めました。

  日本で働いていた時にも看護助手さんがいたので、似たような感じかと思ったら大誤算でした。アメリカのC N Aは歴史が古く、第一次世界大戦時頃にボランテイア形式軍病院で始まり、その後大幅に広がり1987年にはトレーニングが法律で一律化されています。C N Aは現在の日本の介護士のように与薬以外の全ての基礎看護業務を任されます。看護師はC N Aが集めてくれたデータ、血液検査の結果、自分で行うアセスメントを元に与薬、医師への連絡、コメディカル連携のキーパーソンとなります。この気づきで看護師は基礎看護に時間を費やすことが減った分、看護の専門化や研究が発達したのも納得できました。

C N Aとして働きながらR N取得の為に勉強し、翌年R Nとして勤務を始めました。その後11年、整形外科、テレメトリー、一般内科、ステップダウンと色々な病院で病棟ナースとして勤務してきました。その間2人の子供に恵まれ、すこしでも子供と過ごす時間を増やしたいという思いから子供が小学校に進級するタイミングで心臓血管専門外来に移動させてもらいました。

  そこで出会ったのが沢山のN P達です。一般心臓内科のN Pにとどまらす、心不全専門N P、ペースメーカー専門N P、ストレステスト専門N Pなど同じ看護師でありながらも医師からの指示を待つのではなく、自分で判断して行動できることが早期介入につながり重症化の予防、入院日数の短期化と早期回復に貢献していることに強い魅力を感じるようになり、またキャリアアップの可能性を感じました。そして子供達に手がかからなくなる、中学に上がるタイミングでN Pを志しました。



N Pとしての現在の役割

大学院卒業式にて。応援してくれた家族に感謝です。
大学院卒業式にて。応援してくれた家族に感謝です。

N Pとして学ぶことはとても多く、現在6年目を迎えますが毎日が勉強の日々です。

 私の勤務先では、日本人の駐在員とその家族をメインに、アメリカ駐在期間を健康に過ごすことができるようお手伝いさせていただいています。日系クリニックに勤務を決めたのは、まだ英語力が不十分だった頃に私自身か感じた不安感をすこしでも解消してあげたいと思ったからです。また、アメリカに移住され、英語に不自由のない方でも方々も体のことは母国語で説明してほしいと来院されることもあります。


 私がクリニックで診察する患者様は生後1−2ヶ月から70代まで様々です。日本企業指定の定期健診から風邪、腹痛、発熱といった急性疾患、すでに慢性疾患があり日本からのお薬の継続を希望される方、アメリカの学校入学に際し必要な予防注射希望、アメリカのクリニックでの説明が不安だからセコンドオピニオンが欲しいなど、ケアする内容も幅広いのが特徴です。来院の際の受付対応から書類関係、検査、診察、処方薬の説明等全て日本語で対応させていただいています。


 患者様を診察するにあたり、私が一番気をつけているのは傾聴と説明です。これは看護に特化している分野だとも思っています。


 人は誰でも話を聞いて欲しいもの。よくよく聞いてみると、身体の不調の原因が実は心の疲労から来ていることも多いのです。仕事だからと言葉も環境も違う国に来たらストレスが溜まりますよね。一緒に渡米されているご家族も同様です。身体的な問題だけでなく、患者さんの全体像を把握する為にもまずは主訴も含めて患者さんの話に耳を傾け、信頼関係が築けるよう配慮します。

 

 そしてもう一つ大切にしているのが説明です。当院で行った検査結果だけでなく、外部で行われた検査も含め、患者様に説明し、治療方針を決定します。オプションがある場合はそのリスクとベネフィットも伝え、患者様の希望を優先します。

 当院では治療出来ないと判断した場合や専門医の見解が必要と判断した場合も、患者様へ十分な説明を行うようにし、その後のフォローアップも欠かさないようにしています。


今までなんとなく進んできた道のように思っていましたが、振り返ってみるとN Pになるように心動かされ続けていたように感じます。まだまだN Pとして経験は浅く経験したいことは盛りだくさんです。これからも心動かされるままに精進していきたいと思っています。

  



 

いかがでしたか?次回は公益社団法人 地域医療振興協会、内科・小児科・在宅医療 (成人・小児) シティ・タワー診療所で活躍されている広田遼一診療看護師(NP)です。お楽しみに!


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