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救急領域で働く診療看護師の役割~しなやかに、柔軟に~

執筆者の写真: society4japnsociety4japn

関西労災病院

診療看護師 山下 愛


はじめまして。関西労災病院で診療看護師として勤務している山下愛です。このような機会を頂き、看護師として、そして診療看護師としての歩みを振り返ってみました。最後までお付き合い頂けると幸いです。


救急領域の看護師を目指したキッカケ

私は岐阜大学医学部看護学科を卒業し、看護師となりました。大学卒業まで実家で過ごした事もあり、就職を期に一人暮らしをしようと決めていました。とは言っても、大学4年間の間に出来た友人、住み慣れた地元は離れ難く、新幹線ですぐに帰れる距離が良いと思い、大阪市立大学病院(現大阪公立大学病院)への就職を決めました。

無事に就職が決まり、あとは国家試験の勉強に集中するだけ・・・そんなある日、友人達と一緒に車に乗っていると歩行者と乗用車の交通事故に遭遇しました。皆で車を降りて歩行者の方に駆け寄りましたが、血を流し反応のないその方の前でただ救急車が来るのを待つ事しか出来ませんでした。何とか助かって欲しい・・・と一晩ずっと祈っていましたが、翌日の新聞でその方が亡くなられた事を知りました。私に何か出来ていたとしても結果は変わらなかったかも知れない、でも結果が変わらなくても次にそのような場面に遭遇した時には咄嗟に身体が動く看護師になりたい、と思うキッカケとなりました。


診療看護師を目指したキッカケ

希望していた救命ICUへ配属され、最初の数年間は、集中治療が必要な患者さんの病態や看護ケアについていくのに必死で、毎日次々と出て来る疑問を解決する事が楽しくて仕方がありませんでした。しかし、たくさんの後輩ができ指導をしていく中で、より深く患者さんのことを考えるようになった時、少しずつ消化できない思いを抱くようになっていきました。それは、自分自身の知識や経験不足から来るもの、急変の予兆に気づいていながら、医師に報告をしていながら、未然に防ぐことができなかった苦い経験からくるものでした。「このまま仕事を続けていても良いのだろうか・・・」と、仕事に対する楽しさもやりがいも失いかけていた時、当時の特定看護師(仮称)の養成の試行事業が開始された事を知り、藤田保健衛生大学(現藤田医科大学)大学院への進学を決めました。


大学院での勉強

一期生であった事もあり、講義が始まるまでどのような学生生活になるのか全く想像がつきませんでした。しかし、初めての生理学でvon Willebrand病についての講義の中でそれまで聞いた事がない単語が飛び交う内容に衝撃を受けた以上に、全てが新鮮で別世界に来たようなわくわくで心が躍りました。仕事を辞めると決めてから大きく膨らんでいた不安が一気になくなり、私が学びたかった事がここにあるはずだと確信しました。その後の学生生活は、個性豊かな同期と共に、講義も実習もとにかく全力で挑み、学ぶことの楽しさを知った、言葉通り「あっという間の2年間」でした。

今でも仕事で挫けそうになると、この時の事を思い出します。「きっとできる、大丈夫」そう言って励まし合った仲間との時間が、診療看護師として働く中で時々襲われるプレッシャーや辛さを跳ねのけてくれます。


関西労災病院へ就職したキッカケ

大学院を卒業後、藤田医科大学病院でローテート研修を行いました。その間に、大阪市立大学病院の救急で共に働いた事のある、現在の関西労災病院の救命救急科の部長に、ぜひ大学院での学びを活かして一緒に働こうと声をかけてもらいました。大学院生活・ローテート研修を行いながら、ゆくゆくは診療看護師としも救急の領域で働きたいという気持ちが固まっていたため、見学に行く事にしました。



関西労災病院は、兵庫県尼崎市にある35診療科、642床の地域の中核病院で、救命救急科では近隣都市の二次から三次の救急診療を行っており、当時は救急医1名、研修医3名で救急搬送患者の対応から集中治療、一般病棟での入院患者の管理を行っていました。見学の日は朝から夕方までひっきりなしに患者さんが救急搬送され、その合間に緊急手術やICUの集中治療管理などをたった数人の医師で行っており、「ここにも、あそこにも、診療看護師として活躍できる場面がある!」と思わせてくれるのには十分な1日でした。そして何より、「ここで働いてみたい」と思ったのは、「医師が多忙で、緊急の手術や重症患者さんの入院があると他の患者さんの治療が滞ることが当たり前になっているけれど、それではいけない。何とかしたい。」「もっと報告や相談をしたいのに、それをする相手がいなくて困っている。」という看護師の切実な思いを聞いたからです。


診療看護師としての今


関西労災病院へ就職した2015年はちょうど10月に保助看法の改正により「特定行為に係る看護師の研修制度」が施行された年でした。就職した当初は「特定行為」についての認知度はゼロに近いものでしたが、翌年には仲間が3名増え、特定行為の実践と共に診療看護師の認知度は少しずつ病院内で広がっていきました。診療看護師になるための大学院進学をサポートする奨学金制度を作ってもらい、それを利用して診療看護師となった仲間を含め現在は6名の診療看護師が在籍しています。

救急科には5名の診療看護師が所属しています。初療1名・集中治療部門1名・一般病棟3名で各部門に分かれて活躍しています。私自身は現在、一般病棟を担当しながら、緊急手術や急変対応など「予定通り」とはいかないのが常の救急科のため、その日の状況に合わせ臨機応変に仲間のサポートを行っています。

初療担当の診療看護師は、救急患者が搬送されると、初期評価による病態把握および原因精査・治療のための代行入力オーダーを行います。その後、医師と協議しながら必要な処置や撮影した画像の読影を行い、近隣かかりつけ医への診療情報提供依頼や患者背景に関する情報収集を行います。

集中治療担当の診療看護師は緊急手術の助手などを行いながら、循環動態の把握や静脈血栓塞栓症の有無を評価するためエコー等を実施し、必要な検査の追加や合併症の予防を行ったり、可能な限り早期の栄養投与やリハビリテーション介入の調整を担っています。

一般病棟担当の診療看護師は、集中治療室を経ずに外来から一般病棟に入室した患者の身体診察や検査データから、必要な追加検査の代行オーダーを行い診断の補助を行っています。そして、集中治療室での治療が適切と判断した場合には、急変する前に集中治療室へ入室して頂き厳密な管理を行うように心がけています。また、それぞれの患者様の生活背景をより詳細に把握し、退院や転院を見据えて、継続した治療が行えるように多職種と連携をするのが主な役割となっています。

 

患者さんとの関わり


37歳男性 仕事中に誤って左下腿が200㎏近い銅板の下敷きとなり身動きが取れなくなり当院へ搬送されました。

左下腿には骨折、剥皮創を認めました。治療の経過中、創部の感染を起こし、左下腿の切断術を行う必要がある状態となってしまいました。お若い事もあり、全身状態は比較的落ち着いていましたが、菌血症や骨髄炎に進展する可能性があり慎重な管理が必要となりました。最終的には患者さんを含め何度も治療法を検討し、出来る限り温存したいと言うご本人の意志に何とか沿うために主治医と共に毎日の洗浄・デブリドマンを行いました。頻回な処置が必要となり、処置時の鎮痛の方法についてや創傷治癒促進のための食事内容の工夫などをご本人の意向を取り入れながら行いました。そして、感染のコントロールがついてからは、創治癒のため特定行為の一つである局所陰圧閉鎖療法を用いて創部の処置を継続しました。

入院直後は、痛みについてお聞きしても「大丈夫です。我慢できます。」としか仰らなかった患者さんが、約半年におよぶ入院生活の中で、いつの間にか患者さんが一番、ご自身の治療を理解し、積極的にリハビリテーション時の工夫についての意見などを下さるようになりました。そして、2人目のお子さんが産まれるまでには退院したいと目標を掲げ、創部についてはセルフケアにて処置が可能となり、退院されました。現在は外来通院をしながら機能改善のための手術について検討している段階です。日常生活に戻り、より具体的に職場への復帰に向けたリハビリを継続されている様子を聞くと、こちらが励まされる思いになります。


仕事と子育てと

現在、特別養子縁組により生後1週間で迎えた5歳の男の子と、実子の3歳の女の子を育てています。働くお母さんになる事が夢だった私ですが、仕事が充実すればするほど子供を持つと言う事から離れていくような気がしていた時期がありました。30代半ばを過ぎた時、2か月ほど仕事を休まなければならないことがあり、立ち止まって考えるキッカケとなりました。日本には社会的養護が必要な子供達が4万人以上いると言われており、「家庭での生活を必要としている子供と家族になりたい」と強く思い、特別養子縁組で子供を迎える事にしました。

保育園に通う2人との生活は、まさに毎日がドタバタで、てんやわんやです。「お母さん、公園に行って縄跳びしよう!」「朝からはさすがに無理!帰ってきてからね。」保育園の閉園ギリギリに滑り込むように迎えに行き、寒空の下で縄跳びの練習をするのが日課です。夜も、1秒でも早く寝て欲しい・・・と切に切に願っていますが、子供達は話したいことが沢山あって、なかなか寝てくれません。でも、おやすみの前に「お母さん、今日も1日お仕事お疲れさま、頑張ってくれてありがとう。」とぎゅっと抱きついて来てくれる瞬間が何より疲れを癒してくれます。

子育てをしながらだと仕事に対しては諦めなければならないことがたくさんあると思っていましたが、決してそうではありませんでした。「どうすればより患者さんや多職種とコミュニケーションの時間を持てるのか?」「どうすれば円滑に治療が進むのか?そのために私がすべきことは??」働ける時間が限られている事で、「集中してよりよいパフォーマンスをしたい」と思うようになりました。「効率的に」だけではなく、「しなやかに」「柔軟に」これが今の私のモットーです。

 

最後に

仲間と共に、診療看護師として私達に何が出来るのか?を模索しながら走り続けて来ました。気づけば10年。今ではたくさんの人に「救急科になくてはならない存在」と言ってもらえるようになりました。とは言っても、5名では平日の日勤帯だけしかカバーする事が出来ず、休日や夜間はスタッフ医と研修医の先生方が守ってくれています。いつの頃からか、私達は「スパイス」みたいなものだな、と思うようになりました。深みやコクを出して味が締まり、お料理をより美味しくしてくれる「スパイス」。私達も救急科にとって、治療に深みやコクを出し、患者さんにとってより良い安全な治療を提供できるような「スパイス」でありたいと思っています。


 

いかがでしたでしょうか? 次回は米国テキサス州でプライマリーケアNPとして働くメディーナ裕子さんです。お楽しみに!


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